泰暦12年、羅無子は秦の王の墓の建設を命じられ、その後「墓の王」の称号を授けられた。完成後、彼は墓都市の支配者となり、世界の墓を治めた。
それからというもの、墓派は江湖全体で繁栄した。しかし、墓派は最終的に分裂した。墓の王の跡継ぎである慕容石は墓衛派に属し、羅家は逃亡して羅家祠堂を設立し、別の派閥となった。これは墓攻め派として知られている。
両派が対峙した際、墓攻め派の末裔が九重鎖の墓から墓破壊の令状を入手することに成功すれば、王の墓の王座を主張する。何千年もの間、善の派である墓攻め派と墓衛派はほぼ切り離せない関係にあった。今日に至るまで、王の宮殿は意図的に墓の中に財宝を置いている。墓衛派の慕容仙は忠誠心を示すため、墓衛を外部世界から密輸する。